共にいる喜び ローマ 15:24

パウロは、この手紙の中でイスパニア、今のスペインですけれども、そこに行く途中ローマに立ち寄って、この手紙の受け手である人たちとしばしの間ともにいる喜びを味わいたい、そして、その喜びとともにイスパニアに行きたいと述べています。パウロには、親族もいましたし、テント職人の仲間もいた事と思います。その人たちとともにいるという事、時間を共有し、話をしたり食事をしたり、そんな事があったに違いない。でも、まだ会った事のない人たちでしたけれどもローマのキリストにある兄弟姉妹たちとしばしの間でも共にいたいと言った時、特別の思いがあった事と思います。共にいる喜びを味わいたいと言っています。共にいる事が喜びであることを確信しているのです。どんな人か知らない。会った事もない。でも、がっかりすることなどこれっぽっちも想像もしていない。喜びの時となるに違いないと確信しているのです。詩編133編の作者は、「見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、何という喜び」と歌っています。見よ、というのです。そこに感動があるじゃないか。特別の恵みじゃないか。特別の喜びがあるじゃないか、そういう意味です。わたしたちはどうだろうか。今、私たちは週の最初の日に集まっている。一緒に座っている。やはりそれは、「見よ、何という恵み、何という喜び」という現場にいるという事なのです。なぜ、そんなに感動的な事なのだろうか。何がそんなに特別なんだろうか。それは、まず第一に、共に神様の前にいるから恵みであり、喜びなのだという事です。共にいる場と言うものはいろいろあります。学校がそうですし、職場も、趣味の会も、町内会もそうです。しかし、今、私たちがいるこの場は、それらの場と一つ大きな違いがあります。それは、私たちが、イエス・キリストを救い主と信じるキリスト者であれ、まだ信じていない人であれ、神様の前に招かれてともにいるという事です。今まで通ってきた人生の道は様々だと思います。明るいところばかりだったという人はなかなかいないと思いますが、逆に本当に薄暗い所、つらいところを多く通ってきた人もいます。こんな事を言うのはちょっといやらしいかもしれませんけれども経済的にそれなりに安定している人もいれば、そうでない人もいるかもしれません。若い方もいれば年を召した方も、普通にはなかなか交流がないと思われる違う世代に属する方もいます。しかし、今、ともに神様の前に賛美を歌い、祈りをなし、そして神様のメッセージに耳を傾けている。ある意味で皆さんとわたしとは、この礼拝に違うかかわり方をしています。わたしはメッセージを伝えるものであり、皆さんはそれに耳を傾けて下さっています。しかし、神様の前に共にいるという点では同じであるわけです。このような場は、他にありません。そして、この場は喜びの場であるべきです。神様が喜んで下さっている。私たちも喜んでいる。そういう場であるべきです。神の前にいるとは、ものの見方や意見が違う、好みも違う、性質も違う、でも、違うままで良しとして、喜んで共にいる事です。そして、神様の前に共にいるとは共に生きているという事です。神様は、教会はキリストの体であり、一人一人は体の部分のようなものだと教えて下さいました。という事は、共に生きるものだという事です。先程申しましたように一人一人が違うと同時に、置かれている状況も違います。ある人は試練の中におられるかもしれません。今、そうではない人は、あす、試練の中にいるかもしれません。ガラテヤの信徒への手紙6章2節には、「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」とあり、また、ヤコブの手紙2章14節は、行いが伴わなければ何の役に立つでしょうかと言い、着る物や食べ物に事欠いている仲間がいる時に「安心していきなさい」というだけで助ける事をしなかったら何の役にも立たない。行いの伴わない信仰は死んだ信仰だと語っています。もちろんできることには限りがあるでしょう。でも、わたしたちは、出来る限りの助けの手を伸ばし合うものとしてここにいるのです。本当に何もできないとしても祈る事は出来ます。信じて、期待して、本気で祈るのです。そのようにして共に生きる者として、今ここに集っています。そして、天国に向かって進んでいる者として共にいます。フィリピの信徒への手紙3章20節には、「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」とあります。口語訳聖書では本国を国籍と訳しています。わたしたちの地上での国籍は日本です。他の国籍の方も集う事があるでしょう。しかし、霊的な国籍は同じ、天国なのです。そこに向かって地上を旅している。寄留者として旅をしているのが私たちです。そのような者として共にいる。聖書の時代には観光旅行はありませんでした。旅と言えば、神殿のあるエルサレムに向かう旅を意味しました。一人で行く事はありません。一つは安全のためでした。警察組織のようなものがあるわけではない時代に荒野のようなところを旅するのは危険な事でもあったからです。皆ともにいて、お互いを守り合う旅です。そして、共に旅をするもう一つの理由は、エルサレムに上る喜びをともにする事です。詩編を読みますと「都上りの歌」という分類と言いますか、表題のようなものがついたものがたくさんあります。一つ一つを読みますと、ああ、エルサレムに大分近づいた時に詠んだ歌だろうなとか、もうエルサレムが見えて来たなとか、いよいよエルサレムを目の前にしているのだなという風に想像することが出来ます。そして、まだまだ先が長い時も、だんだんと近づいた時も、本当に近くに来た時も、みんなで歌を歌いながら、一つになって旅をしたわけです。同じようにわたしたちは一つになって、共に歌いながら、時として疲れてしまって座り込む友の回復を待ったり、励ましたりしながら本国である天に向かっているのです。そのような者として、今ここに共にいるのです。それは喜びであり、「見よ、何という恵み、何という喜び」という事のできる場です。そしてもう一つ。わたしたちは、ただ共にいる喜びを味わう場としてここにいます。神様によって同じ時代に、同じ国に生み出された者として、また、生まれた国が違うとしても神様に導かれてここに集うものとされて、身分も何もない。ただ共にいる事を喜ぶ。わたしたちは、今そのような場にいます。強いも弱いもない。大きいも小さいもない。神様の前に存在を喜びあう。そういうところに今、私たちは集っています。パウロは、あなた方とともにいる喜びを味わいたいと言いました。わたしたちは、今、共にいる喜びを味わいましょう。来週もそうしましょう。本国に帰るときまで、そのようにしましょう。

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