警戒すべきこと ローマ 16:17-24

長い間ローマの信徒への手紙を読み続けてきましたが、今日がいよいよ最終回です。司会者に16章16節から終わりまでを読んでいただきましたが、その中から私たちが警戒すべき事を聴きとって参りたいと思います。パウロは、信仰による救いを語りました。そして、信仰者としてどのように教会生活をし、また社会生活をするべきなのかを語りました。そして、最後に警戒すべき事を語るのです。17節に「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなた方の学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい」とあります。不和、そしてつまずきをもたらす人々です。なぜ、警戒するのか。教会とは平和で、愛に満ちていて、何も警戒するものなどないのではないのか。日曜日に礼拝をして、この場を離れて、明日から、また一般の社会の中で生活する。そこでこそ警戒するのであって、教会はそうではないのではないかと思われるかもしれません。しかし、20節に「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」とあります。足元で、です。私たちの足元、教会で、です。間もなくです。今はまだサタンは打ち砕かれていないのです。もっとはっきり言うならば、教会は神とサタンの戦いの場なのです。サタンは、常に自分を神とするように働きかけます。エデンの園で、神との交わりの中で平和に暮らしていたアダムとエバに近づき、神に従う事はつまらないことだ、自分で善悪を判断し、何が幸福なのかを決め、そのために何を手に入れればいいのか、つまり、自分が神になるのがいいのだとそそのかしたサタンです。神から離れるように働きかけたサタンです。イザヤ書の14章12節から15節に「ああ、お前は天から落ちた 明けの明星、曙の子よ。おまえは地に投げ落とされた もろもろの国を倒したものよ。かつて、お前は心に思った。『わたしは天に上り 王座を神の星よりも高く据え 神々の集う北の果ての山に座し 雲の頂に登って いと高き者のようになろう』と。しかし、お前はよみに落とされた 墓穴の底に」とあります。これは、バビロンの王の背後にいたサタンについての御言葉です。神の星とか神々とは、天使たちの事です。天使の一人であったサタンは、他の天使よりも上に、さらに神の座に就こうとしたという事です。自分が神になろうとしたのです。それ以来、サタンは主を信じないように働き、主を信じた人については信仰生活を邪魔すること、教会に不和とつまずきをもたらす働きをし続けているのです。その、神との主戦場が教会だというのです。どのようにサタンは働くのでしょうか。不和とつまずきとありました。つまずきの方からお話ししたいと思います。キリスト者は、教会は、何につまずきやすいのか。イエスが私たちの罪を全部引き受けて死んで、葬られて、甦らされた。この事だけでわたしたちの罪は完全に赦されたという事に、実はつまずきやすいのです。そんな馬鹿な、と思われるかもしれません。しかし、新約聖書が書かれている時代にすでに律法主義の問題があったことが分かります。ある人々は、信仰による救い、信仰だけで十分という真理の教えに反対して、イエスを信じたら割礼を受けなければならない、律法も守らなければならないと主張したのです。もっと身近なお話をしましょう。最近、知った話です。ある女性が救われました。彼女の過去は、目を覆いたくなるようなものでした。薬物にまみれていて、そして売春婦でした。でも彼女は、神様がそんな彼女を愛して下さっていること、イエス・キリストが罪を贖って下さった事を知って、心から信じたのです。やがて活発に信仰生活するようになりました。教会学校で、教えるようにもなりました。そんな彼女に牧師の一人息子が心を引かれ、二人は愛し合うようになりました。しかし、ここで問題が起こったそうです。このような過去のある女性は牧師の息子の妻としてふさわしくないという人たちが教会の中に現れたのです。その声は、だんだんと大きくなりました。議論になりました。二人が結婚するようなら、自分は教会を去ると言う人が出てきました。教会のミーティングでそんな事が話されていた時、牧師の息子は立ち上がり、こう言ったそうです。「わたしの愛する人がこのように言われることに我慢が出来ない。ここで問題になっているのは、私の愛する人の過去ではない。わたしたちの結婚が認められるべきか、そうでないかでもない。議論されているのは、イエス・キリストの救いの御業は十分か、それともまだ足りないのか、という事だ」。その時、人々は静まりかえったそうです。この話を知った時、私は姦淫の現場を捕えられてイエス様の前に引きずり出された女性を思い出しました。ヨハネの福音書8章1節から11節に書かれている話です。律法学者やファリサイ人は、モーセの律法によれば、こういう女は石打にされるべきだと声高に叫びました。彼らは、無頼漢ではありません。神を信じる人たちです。自分こそが神に従っているのだと信じて疑わない人たちです。しかし、イエスは「自分に罪がない人から順番に石を投げなさい」と言ったのでした。そうそう、福音書にこんな話もありました。ルカによる福音書7章36節から50節に伝えられていることです。立派な道徳家を自負し、自分こそは神に愛されるものだと信じて疑わない人がいました。イエス様は、その人の家に招かれました。そこに、身を持ち崩した一人の女性が入ってきたのです。夜の女です。昼間に、人々の視線を受けながら道を歩くのも勇気がいったかもしれません。家に簡単に入れるはずがありません。召使いが止めるのを振りほどいて、必死で家に入ってきたのだと思います。その女性が、イエスの足元に近寄り、イエスの足を涙で濡らし、それを自分の髪の毛で拭い、イエスの足に接吻して香油を塗ったのです。この家の主は、びっくりしてみていました。イエスが預言者ならば、神を代表する人であるならば、“汚らわしい”と言って追い出すはずだと思っていたからです。しかし、イエスは、この道徳家の方ではなく、女性の方に「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」と言われたというのです。私たちは彼らと違うと言い切れるでしょうか。時として人の過去を赦さず、また、芳しくない古い習慣を断ち切れないキリスト者がいると裁いてしまいたくなる事があるのではないでしょうか。そんな時、私たちは、その人の行為や思いを問題にしているのではないのです。キリストの救いが完全なのか、そうでないのかを問題にしているのです。つまずきをもたらす人とは、裁く人の事です。そして、その背後にはキリストの十字架の贖いに対する理解の不足があるのです。教理の問題があるのです。不和を警戒するようにという事も、この事と深い関係があります。つまずきをもたらす人が不和をもたらします。裁く人が不和をもたらします。私たちが人を測る物差しを間違えるときに不和が生まれます。つまり、正しい物差しであるイエス・キリストの御業ではなく、自分の物差しを充てるときに不和が生まれます。背後に高慢があります。自分は正しく、間違いはないという思いがあります。自分を信じることは大切です。たしかに、口語訳聖書のコリント人への第一の手紙11章19節に「確かに、あなた方の中で本当のものが明らかにされるためには、分派もなければなるまい」とあります。この聖書の言葉はこういうことを言っていると、自分は思うというところを分かち合う。その中で真理が明らかになるものだと言っています。しかし、そのためには、自分は絶対で間違いはないのだ。自分に反対する人は、すべて間違っているのだという態度の入り込む余地はありません。神学生の時、夜、他の寮生の部屋に集まってコーラとポップコーンを手に、随分と議論したものです。時として白熱したこともあります。しかし、今、それが素敵な思い出となっているのは、みんなが自分の思うところ、信じるところを語りながら、それを絶対視しなかったからです。結論を出さなくてもいいという土俵で議論したからです。今結論が出なくても、そのような分かち合いを通して主は私たちに誤りがあるならそれを示してくださり、誤りがないのであれば確信に、しかし他者を裁かない確信に導いてくださると知っていたからです。私たちの教会に不和を持ち込んではなりません。数週間前の週報に書きましたように、私たちのように、みんなで物事を決めるという形をとる教会にとって不和は致命的な問題になります。そして、不和の原因は、自分を絶対視して裁くことです。20節にありますように、この問題から守ってくださる方は主です。サタンを打ち砕かれるのは主です。ですから、私たち一人一人が主につながること。躓きをもたらさないこと。キリストの十字架だけが救いであること、キリストの御業で十分で、何物も付け加える必要がない、いや、付け加えてはならないことをわきまえること。そのことを今日、心に刻み込みたいと思います。

print

Tweet about this on TwitterShare on Facebook0Share on Google+0