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2024年12月29日 日曜礼拝メッセージ『感謝で一年を締めくくろう』 第一テサロニケ 5:16-18


2024年最後の主日礼拝です。神様は、どんなメッセージで今年を締めくくられるのかと想像し、祈りながら与えられたのが今日の聖書箇所です。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」

この御言葉を聞いて、皆さんはどのように思われるでしょうか?

「いつも喜ぶ?感謝する?でも、今年はその逆のことがたくさんあった。喜ぶどころか、悲しくて、悔しくて、残念でしょうがないことがあった。感謝するどころか恨みたくなるようなこともあった。」

そう思う方もおられるでしょう。

「世の中には、喜びと感謝に満たされて過ごしているような人がいるのだろうか?いるとしたら、いったい何人くらいいるのだろう。そんな人は、自分とは別世界の人間だ。」

そんなふうに感じるかもしれません。そのように感じる人のほうが多いのではないでしょうか。

神様は、めったにお目にかからない特別な人々について語っているのでしょうか?あるいは、無理難題を言っているのでしょうか?根性論を語っているのでしょうか?「どんなことも喜び、感謝しなさい」と。

祈りについてはわかる、「世知辛い世の中でかろうじて生きているのだから祈るしかないよね」と感じる方もいるかもしれません。

さて、神様は何を伝えようとしておられるのでしょうか?

まず、なぜこの御言葉が難しいと感じるのかを考えましょう。それから、どのようにしたらこの御言葉が自分のものとなるのかを考えましょう。


1. なぜこの御言葉が難しいと感じるのか

なぜこの御言葉が難しいのか。それは、私たちが物事や出来事を自分を軸にして評価するからです。自分にとって「心地よいか」「有利か」「自分に利益をもたらすか」といった自分中心な視点で、今起こっている出来事を今という時の中だけで評価します。

私自身、就職試験で大失敗した経験があります。ある会社の役員面接に進みましたが、そこで「山登りをしていることは絶対に言ってはいけない」とアドバイスを受けていたにもかかわらず、役員面接まで行けば落とされることはないと油断して、つい口にしてしまったのです。当時、その会社では有能な社員が遭難事故で亡くなったという出来事があり、山登りは社長にとって禁句でした。結果、希望の会社には入社できず、ひどく落ち込みました。しかしそのことで、クリスチャンの方との出会いを通してイエス様に出会い、献身にまで導かれたのでした。

その時はがっかりし、喜ぶどころではありませんでしたし、感謝など到底できませんでした。そのようなことはたくさんあります。自分を軸にして、今、どれだけの益を得られるか、喜べるか、感謝できるか、という視点で物事を評価しているからです。そうすると、祈りも自分を軸にしたものになります。「あれをください、これをください、ああしてください、こうしてください、ああしてください」とひたすら自分が今欲しいものを求めることになります。経済的なことであれ、自分や家族の健康や病気の癒しであれ、自分を軸として、今という時間軸の中で求める祈りは、物乞いの祈りです。そのような祈りには、祈りが答えられた時に神に栄光を帰するという視点がないことが多いようです。


2. 神を軸にする

ルカの福音書17章11–18節には、10人の病人がイエスのもとを訪れた記録があります。彼らは心の底から祈り、声を張り上げて癒しを願いました。そして、10人全員が癒されました。しかし、イエスのもとに戻ってきて感謝を伝えたのは一人だけでした。あとの9人の祈りは、癒されればそれは充分、という物乞いの祈りだったのです。

イエスは、一人しか戻ってこなかったことについてこう言われました。

「この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」

祈りが答えられた時、「ああよかった」で終わるのではなく、神に感謝し、賛美することにつながらなくてはならないのです。その視点がないと、祈りが答えられないと「信じても何もいいことがなかった」などと言って教会を離れてしまうことすらあります。

私たちが喜び、祈り、感謝するためには、自分を軸とするのではなく、神様を軸にすればいいのです。神様の目から出来事を見るとき、私たちは感謝し、喜ぶことができます。


3. 救いに目を向ける

救いについて考えてみましょう。

神様は私たちの罪を完全に贖い、赦してくださいました。私たちは何も付け加える必要はありません。善行を積んで救いをキープする必要もありません。イエス様が完全に私たちの罪を引き受け、裁きを受けてくださいました。だから、私たちは喜ぶことができます。考えてみてください。神の救いはとてつもなく重いのです。そんな重いものを自分で保つことはできません。

また、イエス様はこうおっしゃいました。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

キリスト者であろうがなかろうが、いろいろな苦労、苦難があります。経済的な苦労、健康上の苦労、子育ての苦労、人間関係の苦労、また、歳を取ることも苦労をもたらします。イエス様はおっしゃいます。「わかっている、わかっている。でも、勇気を出しなさい。その苦労をあなたが背負って、あなたがすべて解決するのではない。私がその苦労を知っている。私はあなたと共にそれを負う。私はそれらに既に勝っている。私を軸としなさい。私を軸として苦労を見なさい。すべてのことは相働いて益となるのだ。ひとつひとつの出来事を自分を軸として見るならば押しつぶされてしまうかもしれない。でも、それは私の出来事でもあり、あなたはその出来事を通して栄光を見るのだ。たとえ、この世に生きている間にその栄光を見なくても、永遠において見るのだ。」そうおっしゃっています。そこにこそ感謝が生まれます。


4. 感謝を先取りする

出来事や苦労そのものはそのままでも、感謝を先取りすることができます。すべては、益のため、より神様を知り、神様を喜び、自分の人生を、自分の存在を喜ぶためなのだとわかることで湧き出る感謝です。すると、祈りが変わります。もちろん、キリスト者も自分の願いを祈ります。しかし、その祈りは既に聞かれているのです。そこに神の栄光が現れます。私達が「ああ、ほんとうに神様は生きて働いておられる。ほんとうに私と一緒にいてくださっている」と知り、賛美する時、そこから喜びと感謝へ、次のステージへと進んでいくのです。今年一年をそのような喜びと感謝で締めくくりたいと思います。そして、来年はさらに喜び、感謝する者となりたいと思います。

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