2025年11月2日 召天者記念礼拝メッセージ 『悲しみの向こうに喜びがある』

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今日は召天者記念礼拝です。すでに天に召された仲間たちを覚える礼拝です。小さな群れであるわたしたちですが、すでに五人の方が天にお帰りになりました。そう思うと、死とは本当に身近なものだなと思います。誰もが親しい人、家族や友人の死を経験しますし、そして自分自身もいつかこの世を去る時が来ます。別れはいつもさみしいものです。
わたしの父は二十二年前に天に召されましたが、その時の悲しみはいまもよく覚えています。信仰があれば悲しくなんかないのではないかと思われる方がいらっしゃることを知っています。「天国を知っているなら、再会することを知っているなら、悲しくないのではないか」「悲しいのは信仰が薄いからではないか」とまでおっしゃる方もいるかもしれません。しかし、“あの人に会いたい”と思い、いまそれがかなわないことを悲しむのは自然なことであり、信仰の弱さを示すものではありません。その人を愛していた、また今も愛しているということのしるしです。
イエス様ご自身も、ラザロの墓の前で涙を流されました。ヨハネによる福音書11章35節に「イエスは涙を流された」とあります。それを見た人々は、「御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いました。イエスご自身、ラザロの死を悲しまれたのです。
さて、今日読みました聖書箇所は、弟子たちが不安に満たされていた時に語られた主のことばです。弟子たちはイエスの言葉の中に、なにか不吉なものを感じていました。
13章33節でイエスはこう言われました。「子たちよ、今しばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを探すだろう。『わたしが行くところにあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」
なんだか不吉な言葉です。「どうしてイエスを探さなければならないのだろう。どこに行ってしまうのだろう。『来ることができない』とはどういうことなのだろう。」弟子たちはそう思ったのです。
イエスは、ご自分の死について語っておられました。弟子たちははっきりとは理解していませんでしたが、「イエスがどこかに行ってしまう」ということだけは感じ取り、不安になったのです。
イエス様は、ご自分の死を前提に言葉を進められました。「心を騒がせるな」とおっしゃり、「あなたがたのために場所を用意しに行く。用意したら迎えに来る。そして、あなたがたはいつまでもわたしと一緒にいる」と語られました。
すでに世を去った主にある愛する人たちの上に、この御言葉はすでに実現しています。イエスは彼らの場所を用意し、迎えに来られ、いま彼らはイエスと共にいます。彼らは、わたしたちとの別れを悲しんでいるのでしょうか。いいえ、悲しみを超えたところにいるのでしょう。黙示録21章4節に「彼らの目の涙はことごとくぬぐい取られ、そこには悲しみも嘆きもない」とありますから。
そして彼らは、やがてイエスを信じるわたしたちが自分たちのもとに来ることを知っています。ヨハネ14章3節でイエスはこう約束してくださいました。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。」
だから、わたしたちは主にある愛する方々と再会します。神様のもとで再会するのです。わたしたちは彼らと永遠に別れたのではありません。
以前、火葬場で、こんな光景を見たことがあります。都会の火葬場はいつも混んでおり、隣同士で同時に火葬されます。あるご家族でしょう、おじいちゃんかおばあちゃんが亡くなられたようでした。お棺の扉が開かれ、最後に顔を見る時、お母さんが子どもに泣きながら言いました。「もう最後なのよ。もう会えないのよ。よく見ておきなさい。」
そうかもしれません。もしそのおじいちゃんやおばあちゃんがイエス・キリストを救い主として信じていなかったなら、確かに「もう最後、もう会えない」のでしょう。残念ですが、これも神様が語っておられる真実です。
しかし神様は、“もう最後”にならないように、“もう会えない”ということがないように、人々が罪ゆるされ、神の子とされ、天の御国に迎えられるようにと、イエス・キリストを送ってくださったのです。
そして、わたしたちの主にある愛する人たちは、イエスを救い主と信じ、この地上の人生を歩み、神様の時に、場所が備えられた時に、神様によって天に移され、今イエス様と共にいるのです。主は、いつか私たちも迎えに来てくださいます。
イエス様が、わたしの代わりに罪の裁きを引き受けてくださったと信じるなら、わたしたちは罪ゆるされた者として天の御国に迎え入れていただけます。その時、主にある愛する人々と再び会い、今度はもう死がわたしたちを引き離すことはありません。ひと時の悲しみは喜びに変わります。その喜びはほかのどんな喜びよりも大きい喜びでしょう。
その時、わたしたちは共に神を、主イエスをほめたたえるでしょう。「イエスの贖いのゆえに、共に天に迎えられた。ただ恵みによって救われ、神の子とされた。われらの主イエスは誉むべきかな!」と、心から共に叫び、いっしょに主を賛美するでしょう。
では、それまでずっと悲しんでいなければならないのでしょうか。そうではありません。サタンはそうしたいと思うでしょう。ずっと悲しませ、さらに「神様、なぜあの人をわたしから取り上げたのですか」と恨むように誘惑するかもしれません。
しかし主は、サタンにもてあそばれるままにはされません。詩編34編18節(口語訳)には、「主は心の打ち砕かれた者に近く、魂の悔いくずおれた者を救われる」とあります。わたしたちの主は共におられる主です。
詩編23編4節には、「死の影の谷を行く時も、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」とあります。死の影の谷とは、あらゆる否定的なものを指します。愛する人と別れる苦しみ、悲しみも死の影の谷です。でもそこで神様は共にいてくださいます。そして悲しみを共にし、「十分に悲しみなさい」と言ってくださり、そして神の時に「子よ、しっかりするのだ」と立たせてくださるでしょう。
最後に黙示録14章13節をお読みします。「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。霊も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」
主に結ばれて死ぬ人、イエスを救い主と知り、信じて世を去る人は幸いな人です。人生の労苦を解かれ、安らぎを得るからです。その行い、すなわちイエスへの信仰による行いが報われるからです。主を信じ、主に従って生きることは、この世の在り方とぶつかることも多くあります。そこには苦労も恐れもあるでしょう。しかし、それらは報われます。「ああ、イエスを信じ、イエスに従ってきて良かった」と、天で愛する人々と共に証しし合う時が来るのです。


※以上のテキストはChatGPT による校正と翻訳に基づいて修正された説教メッセージです。

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