2025年11月23日 主日礼拝メッセージ 『荒野で叫ぶ者の声』

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当時、ユダヤの民はローマ帝国の支配下にありました。長い歴史をもつ民族です。そのような民が他国の支配下に置かれるとき、いったいどのような思いを抱くのでしょうか。私たちの国は幸いにもそのような経験をしていませんが、逆に支配する側であった歴史があります。そして、その支配を受けた人々がどれほどの思いを抱えたのかは、80年以上が経った今も忘れ得ぬ記憶として残っているという事実から推し量ることができます。
ユダヤの民もまた、解放者が現れてほしいと渇望していました。彼らの言葉で言えば「メシア」です。当時のユダヤ人はまさにメシアの到来を心から待ち望んでいたのです。だからこそ、「もしかしたらあの人こそ」と噂される人物が現れると大きな期待を寄せ、そしてその期待が偽りだったと知ると深く失望したのです。それでも、人々は次こそは本物のメシアかもしれないと期待しました。
そんな時にヨハネが現れました。この福音書の著者のヨハネではなく、他の福音書で「バプテスマのヨハネ」と呼ばれる人物です。彼はメシア、すなわちキリストを紹介する者でした。15節に、彼がどのように紹介したのかが記されています。
「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』と言ったのは、この方のことである。」
ヨハネはイエス・キリストのいとこで、年齢的には半年ほど年上でした。しかし彼は、イエスがメシアであることを知り、その前にへりくだりました。自分を高めるのではなく、イエス・キリストを指し示し、彼を高めたのです。ここに真の証し人の姿があります。
わたしたちキリスト者もまた、イエスの証し人です。主を信じ従って生きることの素晴らしさを、日々の経験の中から語ります。しかし、その時に自分に光を当てて語るわけではありません。自分の体験を誇るのではなく、その体験を与えてくださった主を語り、主を誇るのです。
パウロはガラテヤ6章14節でこう言っています。
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものがあってはなりません。」
イエスと人々の前に謙遜に立ち、ただ主に栄光を帰しつつキリストを伝えましょう。
さて、19〜23節には、祭司とレビ人がヨハネのところに来た出来事が記されています。ここで「エルサレムのユダヤ人」とは、エルサレムに住む一般市民という意味ではなく、宗教的権威を持つ人々を指します。彼らはヨハネのメッセージの噂を聞き、調査官として祭司とレビ人を派遣したのです。そして「あなたはどなたですか」と尋ねました。実際には、もっと荒々しい口調だったでしょう。「お前は何者だ。何の権威があってそんなことを語っているのか」と問うたのです。
ヨハネは、人々が期待しているメシアではないと答えました。さらに、預言されているエリヤでもない、モーセが言及した「やがて来る預言者」でもないと言いました。尋問する者は戸惑い、22節でこう問います。
「それではいったい誰なのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だというのですか。」
返事を持ち帰らないと職務怠慢になる、ということです。これに対してヨハネは、「自分は荒れ野で叫ぶ声だ」と答えました。これが、ヨハネの、そしてわたしたち証し人のアイデンティティーです。
「荒れ野で叫ぶ声。」
イザヤ書にある預言の言葉で、キリストを紹介する者は「荒れ野で叫ぶ声」だと語られています。荒れ野は、何もない砂漠のような地理的場所の意味もあります。実際ヨハネの活動場所は荒野でした。しかし同時に、人生そのものを指す比喩でもあります。かつて「東京砂漠」という言葉がありましたが、人生もときに砂漠のようです。決して安らかな環境ではなく、さまざまな、思いがけない困難に満ちた日々の生活。これが荒れ野です。
当時の宗教家たちは荒れ野で叫ぶ声ではありませんでした。権益を得て豊かな暮らしをし、人々の苦しみには無関心でした。しかし、キリストの証し人は荒れ野で叫ぶ声なのです。荒れ野に身を置きながら、そこでイエス様とともに歩む素晴らしさを知り、その素晴らしさを伝える者なのです。
だから、「自分にはこんなことが起こるのは神が裁いているからだろうか」「救われていないのだろうか」「信仰が弱いからだろうか」などと思う必要はありません。まさに、荒れ野で叫ぶようにと、わたしたちは召されているのです。
ヨハネはキリストを紹介しました。24〜28節とともに、マタイ3章11–12節を読みましょう。26節にはこうあります。
「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」
聖書協会共同訳のように「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられる」と訳す方がよいでしょう。あなたを愛し、あなたと出会いたいと願っておられる救い主キリストは、遠く離れているのではなく、わたしたちの暮らす荒れ野のただ中に立っておられる、というメッセージです。
マタイ3章11–12節にはこうあります。
「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、…その方(イエス・キリスト)は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に納め、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
「悔い改めよ」がヨハネのメッセージの中心でした。悔い改めは、反省を伴うこともありますが、本来の意味は「向きを変える」ことです。あり方を変える。自己中心から神中心へ、自分の望みや欲望に従う生き方から、神に従って生きる生き方へと向きを変えることです。
そして「聖霊と火のバプテスマ」。イエスを救い主と信じる者には聖霊が与えられ、神がいつも共にいてくださいます。しかし救い主を拒む者には火のバプテスマ、すなわち裁きがあると警告しています。恵みと、恵みを退けることの危険。救いと裁きのメッセージです。わたしたちが神の恵みを伝えるとき、それは同時に神の裁きも語っていることになるのです。裁きからの救いこそ、神の救いです。
ヨハネはイエスを指し示し、悔い改めとそこにある恵みを伝えました。あなたもキリストにあるなら、同じ使命に召されています。教役者としてその使命に応える人もいるでしょう。教会で奉仕する者として、また職場で証し人として応える人もいるでしょう。形はいろいろです。しかし、バプテスマのヨハネとは異なる使命に召されているキリスト者は一人もいない。このことを覚えたいと思います。


※以上のテキストはChatGPT による校正に基づいて修正された説教メッセージです。

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