2025年12月14日 主日礼拝メッセージ 『最初の弟子たち』
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ヨハネによる福音書1章は、時系列で記録されています。まず15節から、バプテスマのヨハネがイエスを「神の子羊」として紹介したことが伝えられています。29節には「その翌日」とあり、さらに35節にも「その翌日」、43節にも「その翌日」と続きます。そして2章1節では「それから三日目」と記されています。
今日の箇所は、バプテスマのヨハネが公に登場してから三日目の出来事ということになります。その日に何があったのでしょうか。ヨハネが公にではなく、弟子たちにイエスを指し示したこと、そしてイエスが最初の弟子たちを召し出されたことが記録されています。
ヨハネはイエスを直接指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と言いました。15節のように「わたしの後に来られる、わたしに勝る方」と言う遠回しの表現ではありません。この方こそが世の罪を取り除く方、つまりメシアであると、はっきり宣言したのです。
ここまで読んで、バプテスマのヨハネは本当に「証し人」だと思わされます。「証し」という言葉は法律用語です。法廷での証言のことです。証人はパフォーマンスをする人ではありません。自分にスポットライトが当たるように話すのではないのです。そうではなく、事実をありのままに語ります。
「いやあ、あの証人は話がうまかったね」などということは、本来あり得ません。話がうまいかどうかはどうでもよいのです。事実を語ることこそが大切なのです。
わたしたちの証しも同様です。たとえば、奇跡的に病が癒されたとか、不思議な導きによって人生を左右する人に出会ったとか、さまざまな神の恵みがあります。しかし、その出来事によって人々が神の存在と力、恵みを知ることこそが大切なのであって、「誰々さんに起こった」「あの人は信仰が素晴らしいから起こった」ということが中心ではありません。
証しをする者は、自分に焦点が当たらないように、神だけが栄光をお受けになるように祈りながら語るべきです。
さて、バプテスマのヨハネの証言によって、二人の弟子がイエスのもとへ行きました。一人はアンデレだと書かれています。では、もう一人は誰でしょうか。なぜ名前が記されていないのでしょうか。最初の弟子なのですから、名前を残してもよいのではないかと思いませんか。
間違いなく、もう一人はヨハネ自身、この福音書を書いたヨハネでしょう。
二人は、すでにイエスに何かを感じていたのだと思います。簡単に近づくのは少し無遠慮な気がしていたのかもしれません。「イエスについて行った」とありますが、声はかけなかったのです。声をかけられることを期待も予想もしていなかった。それでも、ついて行かずにはいられない何かがあったのです。それは、「この人をもっと知りたい」という思いだったのでしょう。
そんな二人にイエスは気づかれました。「気づく」というのは、そこにいることに気づくというより、二人の思い、心に気づかれたということです。そしてイエスは、「あなたがたは何を求めているのですか」と問いかけられます。
二人は、「ラビ、どこにお泊まりですか」と尋ねました。実はこれは、弟子にしてほしいと願うときの決まり文句です。当時、ラビの側から「弟子にならないか」と声をかけることはありませんでした。弟子になりたい者のほうから、「ラビ、どこにお泊まりですか」と尋ねるのです。
答えは二つしかありません。一つは、「わたしに何の関わりがありますか」というもの。これはノーです。あなたを弟子にするつもりはない、という意味です。もう一つは、「来なさい。そうすれば分かります」。これは、弟子にしようという意味、つまりオーケーです。
イエスは、もっとイエスを知りたいという二人の真摯な願いを見抜いて、「弟子にしてあげよう」と言われたのです。
「時は第十時だった」とあります。これは何時のことでしょうか。これも二つの可能性があります。ローマ式であれば、午前0時から数えて十時間目、つまり午前10時です。ユダヤ式であれば、午前6時から数えるので午後4時になります。
どちらかは想像するしかありませんが、わたしは午後4時ではないかと思います。午前中は忙しい時間ですし、午前10時にすでにヨハネがイエスを指し示し、二人がイエスについて行ってこの出来事が起こったというより、午後4時に起こったと考えるほうが自然です。また、「どこにお泊まりですか」と尋ねるのにも不自然ではない時間です。
そうだとすれば、イエスと二人は夜通し話したことでしょう。もちろん、旧約聖書からメシア預言を解き明かされたに違いありません。最初は「もしかしたら…」と思っていたかもしれない。師であるバプテスマのヨハネの言葉にも、半信半疑だったかもしれません。しかし、やがてイエスこそがメシアだと確信するに至ったのです。
そして彼らの人生は、この時、まったく変えられました。今日何をして過ごすか、仕事をどうするかが関心の中心だった彼らは、「わたしたちはメシアに出会った」と伝えることが、伝えたくて仕方がないこと、伝えずにはおられないことへと変えられたのです。
アンデレは兄弟シモンに伝えました。彼は伝道者とされたのです。珍しいこと、新しいことが大好きなシモンは、興味津々で、しかし半信半疑、あるいは「そんなことがあるか」とアンデレをからかう気持ちもあったかもしれません。それでも、すぐにイエスに会いに行ったのは、少し軽薄なところのある彼らしい姿だと思います。
そして彼は、この後もしばしば軽薄さを見せますが、イエスは彼を見て「軽薄なシモンよ」とは言われませんでした。「じっと見つめていた」と42節にあります。どんなまなざしだったでしょうか。優しく、心の底まで見通すまなざし。まさに神のまなざしだったのではないでしょうか。
そしてイエスは言われました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えればペトロ)と呼ばれます。」
ヨハネの子シモン。それは、ヨハネという父の子であるシモンであると同時に、今あるシモン、つまり軽薄なところがあり、大風呂敷を広げ、先のことを計算せずに走ってしまうシモンです。イエスは、そのすべてを知っていると言われたのです。
しかし、次に驚くべきことを語られました。「あなたをケファ(岩)と呼ぶ」と言われたのです。不動の岩、揺るがない岩。アンデレとヨハネは顔を見合わせたかもしれません。「ペトロと全然違うじゃないか」と思ったかもしれません。
しかし、イエスは真のシモン、真のペトロを見ておられました。ペトロ自身も知らず、気づいておらず、あるいはいつか忘れ去ってしまったペトロです。
わたしたちも同じです。わたしたちは、自分自身を本当には知らず、あるいは忘れ去っています。先日、賜物チェックをしましたね。自分には思いもよらない賜物が示されて、信じられなかったり、「このテストはあまり良くできていないのでは」と疑った方もおられたかもしれません。
賜物チェックは確かに完全ではありません。しかし、イエスのまなざしは完全です。そして、あなたもわたしも神の作品です。そうであるなら、どんなに自分を否定しても、それは表面的には当たっている部分があるかもしれませんが、神はあなたの中に、他に代えられない、かけがえのないものを必ず備えておられるのです。
また、わたしたちはそれを知らなくても、心のどこかで「自分には何かがあるはずだ」と思っています。だから、いつも自分を否定している人が、「あなたは本当に自分をよく知っていますね。その通り、わたしもあなたはだめだと思いますよ」と言われたら、喜ぶ人はいません。「あんたには言われたくないわ」と思うのです。
原石かもしれません。しかし、あなたの中には、イエスがじっと見つめ、「素晴らしい」と言われるものが、確かにあるのです。
それに出会うためには、まず神の言葉があなたを何と言っているのかを知ることです。しかし、その先については、短い時間で伝えることはできませんし、メッセージという形で語ることも難しいので、ここまでにします。ただ、これが基本です。
聖書は、客観的に読むだけではだめです。研究するように読むのでもだめです。「ある学者はこう言っている」「ある説教者はこう解釈している」という読み方では足りません。自分に語られた言葉として読み、思い巡らし、黙想することです。
そうですよね。もしあなたがラブレターをもらったら、どうしますか。「誰それはここをこう解釈している」などと読むでしょうか。そうではなく、自分に向けられた言葉として読み、自分の心の中で思い巡らすのではないでしょうか。「この言葉はどういう意味だろう」「この一文にはどんな思いが込められているのだろう」と、心をときめかせながら読むはずです。決して、「辞書によるとこの言葉はこういう意味だ」とか、「言語学者はこう言っている」などとは考えないでしょう。
アンデレはシモンに、「メシアに出会った」と伝えました。好奇心いっぱいのシモンは、イエスに会いに行きました。いや、見に行ったと言ったほうがよいかもしれません。アンデレのように、「どこにお泊まりですか」という姿勢ではありませんでした。
しかし、イエスのほうから声をかけられました。「あなたはヨハネの子シモンだ。しかし、わたしはあなたをもっとよく知っている。あなたをケファと呼ぶ。」
イエスは、あなたを何と呼ばれるでしょうか。あなたは誰で、どのように生きるべきなのか。どのように神の栄光を現すべきなのか。それは、あなたとイエスとの対話の中で、そして日々共に歩む中で、少しずつ明らかにされていくのです。
※以上のテキストはChatGPT による校正に基づいて修正された説教メッセージです。









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