2025年12月7日 主日礼拝メッセージ 『見よ! そして、見た!』
https://www.youtube.com/watch?v=E9_U-i8MDoI
今日はヨハネの福音書1章29節から34節を読みました。「その翌日」と始まります。バプテスマのヨハネがエルサレムの宗教指導者から遣わされてきた人々に問いただされ、「あなたがたの中に、聖霊と火でバプテスマを授ける方が立っている」と証言した、その次の日の出来事です。ここから先は、35節、43節に「その翌日」、さらに2章1節に「その三日目」と続き、時系列に沿って物語が展開していきます。
今日の個所ではヨハネが「あなたがたの中にいる方」とか「聖霊と火でバプテスマを授ける方」といった、いわば遠回しな紹介ではなく、イエスを公に示しました。その言葉が29節の「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」です。これは単なる紹介というより、はるかに力強い、全世界への呼びかけであり、時代を超えた呼びかけです。
エデンの園で人が罪を犯したとき、神は「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられましたが、この「見よ」という言葉は、その呼びかけに対応するものだと言ってよいと思います。「どこにいるのか」と呼びかけられても、素直に神の前に出ていけない人間。その人間に対して、神は今度は「見よ」と呼びかけておられるのです。たしかにヨハネの口から発せられましたが、そこには神の言葉、神の呼びかけが響いていました。ヨハネは神の言葉を代弁したと言ってよいでしょう。
この呼びかけの言葉を、注意深く見ていきたいと思います。
「見よ」については、すでに触れました。これはすべての人への語りかけであり、だからあなたへの語りかけでもあります。「見よ!」——その言葉はイエスを指しています。「イエスを見なさい」ということです。
では、そのイエスとは誰でしょうか。「世の罪を取り除く神の子羊」と言われています。「世の罪」とは二つの意味を含んでいます。
まず第一は、一人ひとりの個人的な罪です。罪はギリシア語で「ハマルティア」と言い、的外れという意味です。人として本来あるべき姿から外れ、崩れている。わたしたちは、自分が厳密な意味で「真人間」ではないことを知っています。こうあるべき姿とずれている。そのずれはどこから来るのか。聖書は、神との関係がずれ、壊れているところから来ると語ります。
神の似姿から外れ、神を神として生きる道から外れ、自分を中心に据えて考え、行動してしまう。それが罪であり、的外れであり、ずれです。すべての苦しみや悲しみは、ここから生まれます。思い通りにならない、望むものがすべて手に入らない。そこでねたみ、恨みが生まれ、欲しいもののために人を犠牲にする。しかも合理的な理由をつけて。それが罪であり、神はこれを見過ごされません。
第二に、人の罪は「世の罪」を生み出します。世の不正、不合理、差別、偏見、高慢など、あらゆる問題を生み出します。そして神はそれらをも正さずにはおられません。
そのような罪、人間存在の崩れを、神の子イエスが——救い主が——取り除いてくださると、ヨハネは神のメッセージを語っています。罪は人の力では取り除けません。勝つこともできません。取り除かれなければならず、取り除いていただかなければならないのです。
この「取り除く」は、石ころをちょっとどけるような軽い意味ではありません。「担って取り除く」という意味です。誰かが、そう、イエスが、わたしたちの罪を担って取り除く方だと、ヨハネは紹介しているのです。イエスはわたしたちの罪も、罪から来る痛みも悲しみも担い、取り除いてくださる方です。
今すぐすべてが完全に取り除かれるわけではありません。しかし、わたしたちが世を去ってイエスにまみえる時、罪は完全に取り除かれます。また、救い主として来られたイエスが、勝利者として再び来られる時、世の罪は完全に取り除かれると神は約束されます。ここに希望があります。ここにしか希望はありません。
では、どのようにして罪が取り除かれるのでしょうか。「神の子羊」という言葉に答えがあります。わたしたちにはすぐにピンと来ませんが、ヨハネの言葉を聞いたユダヤの人たちは、すぐに出エジプト記12章の出来事を思い起こしました。彼らが奴隷の地エジプトから救われた時、神は家ごとに子羊を屠り、その血をかもいに塗り、その肉を食べるよう命じられました。血を塗った家には神の裁きが過ぎ越しましたが、そうしなかった家には裁きが下り、初子が皆、打たれました。
羊の血を塗った家の人々が、特別に立派な人たちだったわけではありません。裁きが下った家の中には、むしろ立派な人も多くいたでしょう。しかし決定的だったのは、神の言葉を信じて受け入れたかどうかでした。
これはイエスの十字架の死と重なります。イエスがわたしたちの裁きを引き受け、死んでくださったこと。ユダヤ人が羊の肉を食べて“ひとつ”になったように、わたしたちも「イエスの死はわたしのためだった」と受け取り、イエスの死に自分を重ね合わせるとき、神の裁きは去ります。いいえ、イエスが負ってくださり、わたしの裁きはイエスにおいてすでになされた——イエスが引き受けてくださった——それを自分の出来事として受け取るのです。
ローマの信徒への手紙6章は、これを「イエスの死にあずかる者となった」と表現しています。
さて、31節から34節。ここではヨハネがどのようにしてこの真理を知ったかが語られます。彼は「イエスを知らなかった」と言います。もちろん、いとこ同士ですから、ふつうに知っていました。でも「自分が子どもの頃に一緒に遊んだいとこが、神から遣わされたメシア、救い主、神の子である」ということは知らなかったという意味です。
では、どうして知ったのか。それは神の啓示によりました。神が直接教えてくださったのです。「霊が降って、ある人の上にとどまるのを見たら、その人が聖霊によってバプテスマを授ける方である」と神に示され、それがイエスの身に実現するのを見たのです。
啓示とは、その人だけが経験するもので、他の人は説明されてもなかなか理解できません。しかしヨハネと同じように、神の真理は啓示によって、神ご自身によって、わたしたちに知らされます。だから誰でも知ることができるのです。
よく、理解して知ろうとする人がいます。たくさんの聖書の本を読み、学説を学びます。でも、見えないのです。それは「見る」方法ではないからです。どこかの首相が「働いて、働いて」と言いましたが、私たちは「祈って、祈って、祈って、祈って」聖書に向かうのです。「どうか真理を啓示してください」と祈り倒して聖書に向かう。その中で、神の真理は神によって示されます。
「見よ!」と神は言われます。あなたが見ることは神の御心なのです。ですから、「見させてください」と応答しましょう。神はあなたの霊の目を開き、見させてくださいます。
※以上のテキストはChatGPT による校正に基づいて修正された説教メッセージです。









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