2026年2月15日 証し&日曜礼拝メッセージ『すべて相働きて益となされる神』
https://www.youtube.com/watch?v=cFKTvbw04BY
昨年12月28日以来、久しぶりの対面でのメッセージとなります。その間、日曜日が6回ありましたが、雪のために礼拝を守ることができなかった2月8日を除き、5回の礼拝では原稿を読んでいただくことでメッセージをお伝えしてきました。この間、私は入院していたのですが、その中で示されたことや感じたこと、いわば証しを中心に、今日はメッセージをお伝えしたいと思います。
入院してすぐに、ある方から「石井先生が入院するなんて、神様はなぜそんな酷いことをされるのだろう」という内容のLINEをいただきました。そのように私のことを思ってくださることに感謝しつつ、私はすぐに「でも、少なくとも六つの恵みがあります。決して酷いことではありませんよ」とお返事しました。そのあたりのこともお話ししたいと思います。
昨年12月26日、私は東京バプテスト神学校の冬期公開講座に出席していました。東京神学大学教授で日本旧約聖書学会会長の小友聡先生によるコヘレトの講義です。南浦和のバプテスト会館で開かれていたのですが、実はそこへ向かう途中、電車の中で右肩のあたりに違和感を覚えました。それが時間とともにどんどん強くなっていったのです。そして午後4時の時点で脂汗が出て、痛みに耐えられなくなり、受講を中止して帰宅しました。
痛み止めを飲んで様子を見ていたのですが痛みは引かず、29日に整形外科を受診しました。昨年最後の診療日です。診断は五十肩で、3か月ほどで治るとのことでしたが、痛みは増す一方で高熱も出てきて、これは何かおかしいと感じました。我慢ができなくなったのは31日の大晦日です。もうクリニックは開いていません。♯7119に電話したところ五つの病院を紹介され、自分で連絡するように言われました。娘が調べてくれて、ここが良いのではないかと教えてくれたのが都立多摩総合医療センターでした。
さっそく電話をしたところ、年末のため対応できる医師が少なく、応急処置しかできないかもしれないとのことでしたが、行くしかありません。11時ごろ病院に到着しました。ここでまず第一の恵みです。3時間から4時間待つと言われていたのですが、1時間ほどで受診することができました。担当の医師が必要な検査をしてくださり、ここでさらに次の恵みです。必要な診療科である整形外科の医師がおられたのです。
血液検査とCTの結果、首と胸に膿がたまっており、それが急速に増加しているとのことでした。放置すれば数日のうちに窒息状態になるとのことでした。ということは、正月明けまで待っていたら危なかったということです。すぐに緊急手術をすることが決まりました。それが午後2時頃のことです。手術開始は午後7時の予定でした。
さて、ここで次の恵みです。実は首の手術と胸の手術は担当科が異なるため、本来は2回に分けて手術を受けなければなりません。ところが、年末にもかかわらず整形外科だけでなく耳鼻咽喉科の専門医もおられ、このお二人の先生と麻酔科の先生が相談してくださり、1回で両方の手術を行うことになったのです。この種の調整には時間がかかるようで、手術開始は2時間遅れ、午後9時となりました。
手術室に入ってすぐに全身麻酔が施され、あっという間に意識がなくなりました。というより、意識がなくなったことすら分からないほどでした。手術は無事に終わり、元日の夜中2時に病室にいることに気づくまで、私は無意識の状態でした。
ところで、麻酔をかけるときに医師が、「呼吸も完全に止まるので、口から管を入れて人工的に肺に空気を出し入れします。死んだように眠ります」とおっしゃいました。予診のときに、ぐらぐらしている歯はないかと聞かれ、なぜそのようなことを聞くのかと思っていましたが、大きな器具を口に挿入するため、歯がぐらついていると折れる可能性があり、それが喉の奥に落ちると大変なことになるのだと後で知りました。
とにかく、麻酔医の「死んだように眠る」という言葉を聞いて、私は思いました。「エバが造られるときにアダムが、また神様がアブラハムと契約を結ばれるときにアブラハムが、深い眠りに落とされたではないか」と。神学校の授業で先生が、「この眠りは普通の眠りではなく、死を思わせる特別な言葉が使われている」とおっしゃっていたのを思い出しました。図らずも、アダムやアブラハムと同じような経験をすることができるのではないか、と思ったのです。
とにかく手術は無事に終わり、術後3時間は安静でしたが、その後は痛みもほとんどなく、元日の朝7時半には普通食――ご飯とエビ、紅白のかまぼこ、そして餅の入っていないお雑煮――をいただくことができました。
現在は感染症対策のため、大部屋でもベッドがカーテンで仕切られ、個室のようになっています。その中で、ここまでの神様の恵みを思い、また大げさかもしれませんが、死に近づきながらも生かされていることを覚え、食事をいただきながら涙がこぼれました。
そのとき、コヘレトの言葉が心に浮かびました。コヘレト3章2節です。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」これまで私は、神様のご計画の時に私たちはこの世に生を受け、また神の時に世を去るのだと理解していました。しかし、生と死は背中合わせであるというだけでなく、私たちは死のただ中に生まれ、死のただ中を生きているのではないかという感覚を覚えました。
小友先生が、「コヘレトの核心は、誰もが死ぬ、しかしそれでも生きよというメッセージだ」とおっしゃっていたのを思い出しました。死に囲まれて生きている。それでも神様に信頼して、とにかく生きる。そのようなことを、わずか数時間しか受けられなかった講義でありながら、机の上の知識ではなく、体験として深く受け取ることができたのも恵みでした。
そして、どうしても触れなければならないのは、妻の献身です。家事に加え、教会の掃除や郵便物の整理など、普段二人で行っていることをすべて一人で担い、その上ほぼ毎日のように病院へ見舞いに来てくれました。それには大きな工夫とエネルギーが必要だったと思います。また、水曜日の祈りの会も、妻がリーダーというわけではありませんが、実際には一人で準備をし、皆さんを迎えるという大きな役割を果たしてくれました。
これもコヘレトですが、4章9節から12節にこうあります。「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいない一人ぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして暖かくなれるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」
この言葉を思い出し、実感として味わう恵みにもあずかりました。ところで、二人なのに、なぜ三つ撚りなのでしょうか。三つ目の糸は何でしょうか。それは神様です。クリスチャンの夫婦は違うのだということを、身をもって教えられました。もちろん、クリスチャンでないご夫婦や、どちらか一方だけがクリスチャンであるご夫婦の中にも、素晴らしい関係はいくらでもあります。しかし、三つ撚りではない。二人で神を仰ぎ、助け合い支え合うということは、特別な恵みなのだと実感させられました。
コヘレト8章6節には、「人に降りかかる災いは多い。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、誰も告げることはできない」とあります。不安を呼び起こすみことばです。まさに今回、私に起こったことに重なります。
しかし、もう一つ、私たちが知らないことがあります。コヘレト11章5節です。「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様に、風の道がどのようなものかを知らない。そのようにあなたは、一切を行われる神のみわざを知らない。」予測できない出来事の中で働く神の御業を、私たちは前もって知ることも、予想することもできないのです。
私たちが知っているのは、神様が最善をなしてくださるということだけです。
ローマの信徒への手紙8章28節には、神を愛する人たち、すなわち神のご計画に従って召された人たちのためには、すべてのことが共に働いて益となることを、私たちは知っているとあります。
今日、こうして声を出してメッセージを語っていることも恵みです。首にメスを入れる手術は非常に危険を伴うものです。神経を傷つけて声を失うかもしれない、あるいは人工呼吸器が必要になるかもしれないという説明を受け、万が一に備えた同意書にも署名しました。そのとき、もしそうなれば、もうメッセージを語ることはできなくなるかもしれない、という思いが一瞬頭をよぎりました。
しかし、そのようなことにはなりませんでした。神様は、まだしばらくメッセージの務めを続けるようにと導いておられるのだと思います。
最後に、コヘレト3章11節を読んで、メッセージを閉じたいと思います。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行う御業の始まりから終わりまでを見極めることができない。」
目に見える状況がどのようであっても、その中で神様が最善をなしておられること、そして何かを語ってくださっていることを知ることができたことを感謝いたします。
※以上のテキストはChatGPT による校正に基づいて修正された説教メッセージです。








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