2025年10月26日 日曜礼拝メッセージ 『イエスとは そして私とは誰か』
https://www.youtube.com/watch?v=IJX_1tJzlFM
今日は、ヨハネによる福音書1章1節から5節よりメッセージを取り次ぎたいと思います。テーマは、「イエスとは誰か。そして、私とは誰か」ということです。今日のメッセージによって、自分のアイデンティティーを知る方も、すでに主にあるアイデンティティーを知っている方も、それを改めて確認していただきたいと思います。
少しややこしい部分もあります。ヨハネは、もしかしたら頭でっかちのインテリを想定して書いたのかなと思う箇所もありますが、辛抱してみことばに耳を傾けましょう。
イエスとは誰でしょうか。世界三大宗教の一つであるキリスト教の創始者でしょうか。それとも偉大な道徳教師でしょうか。あるいは失敗した社会改革者でしょうか。さまざまな視点や切り口があります。しかし、本当のところはどうなのでしょう。人がどう考えるか、歴史観に照らしてどうか、という問題ではなく、聖書は彼のことを誰と伝えているのか。それがポイントです。
イエスが誰であるかは聖書全体のテーマですが、今日の聖書箇所は、明確に、そして少し謎めいた言葉で伝えています。初めて読むと戸惑うかもしれません。「これは一体何を言っているのだろう」「言とはどういう意味だろう」「初めにあったとはどういうことだろう」といった具合です。一つひとつ解き明かしていきましょう。
イエスの自己紹介です。なぜ「言」がイエスだと分かるのでしょうか。2節では「この方」、5節・9節では「光」「真の光」、14節では「肉となって」と、ひとり子として説明されています。そして17節で、それがイエス・キリストであることが明らかにされます。
「初めに言があった」と書かれています。まず、「初め」とは何の初めでしょうか。今日の初め、今年の初め、私の人生の初め、あなたの人生の初め。また、「今日は、残りの人生の初め」という言葉を聞いたこともあります。しかし、ヨハネの福音書での「初め」には冠詞がありません。これは絶対的な初め、時間がまだ始まっていない時を意味します。そんな時があると想像するしかありませんね。
イエスは時間を超えて永遠に存在する方であり、それは神であることを示しています。出エジプト記で神はご自身を「有って有る者」と表されました(口語訳)。いつもあり、時間を超えており、どこにでもある者。それは神だけの在り方です。イエスもご自身を「ある」とおっしゃいました。
ヨハネの福音書18章では、人々がイエスを捕らえに来た場面があります。「誰を探しているのか」と問うイエスに対し、彼らは「ナザレのイエスだ」と答えます。するとイエスは「わたしである」と言われます。6節には「イエスが『わたしである』と言われたとき、彼らは後ずさりして地に倒れた」とあります。なぜでしょうか。イエスが自分は神であるとおっしゃったからです。シャカイナ・グローリー、神の栄光が現れたため、人々はその前に立つことができなかったのです。
「言は神と共にあった」とも言われています。では神とは別の誰かなのでしょうか。そうではありません。これは父なる神との親密な関係にあることを示しており、親密なだけでなく一体なのです。少し謎めいた真理ですが、完全に説明し尽くすことはできないかもしれません。
例えば「ホリスティック」という言葉があります。全人的という意味です。全人的医療とは、人を単なる体として診察するのではなく、魂と霊を含む全体としてケアすることです。全人的教育は知識だけでなく情操教育や体育も含め、人間全体を教育することです。わたしたちは、聖書が語るように、体・魂・霊によって存在しています。魂は見えませんが、体と一体で互いに影響し合います。心が痛むと食欲が出ないのと同じです。
言、すなわちイエスは神であり、父なる神と一体です。そして、イエスが神であることに神のメッセージ全体がかかっています。救いはイエスの死によってもたらされました。罪なき神が人となり、わたしたちの罪を背負うことによって、わたしたちの罪は赦されました。もしイエスが神でなければ、十字架は単なる罪人の死で終わってしまいます。
3節・4節に目を向けましょう。「万物は彼によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものはひとつもなかった」とあります。「あった」のではなく「成った」です。言、イエスは成った者ではなく、造られた者ではありません。しかし他のものは、わたしたちも含め、すべてイエスによって成ったのです。「成った」とは、材料から造られたのではなく、無から作り出されたことを意味します。皆さんは偶然に生まれたのではありません。言によって成った者、望まれて生み出された者です。サルやアメーバーが祖先ではありません。もちろん環境に応じて進化することはありますが、そもそもの最初は神、イエスによって成ったのです。
この創造は新しい創造にもつながります。人が神の子とされる創造です。4節に「言の内にいのちがあった」とあります。この命は、やがて死ぬ命ではなく、「命そのもの」を意味します。永遠の命そのものがイエスの内にあります。そして、この命に結びつくとき、私たちは新しく創造されます。罪が赦され、神の子とされ、永遠に生きる者となるのです。
コリントの信徒への手紙二5章17節には「キリストと結ばれた人はだれでも、新しく創造された者です。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じました。これらはすべて神から出るもので、神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました」とあります。ローマの信徒への手紙6章3節~8節も同様です。バプテスマによって私たちはキリストと共に死に、古い自分は罪に支配されなくなり、新しい命に生きるのです。
つまり、この新しい創造は十字架で起こります。イエスが私たちのために罪を背負い、神の怒りを受け、裁かれ、死に、しかし復活されたのです。それが私たちのための出来事であると知り、受け入れ、告白するとき、私たちは神の前に新しくされます。
まとめましょう。イエスは神と共にあり、神であり、すべてのものは彼によって成りました。私たちも彼によって成りました。そして、罪人である私たちは十字架によって罪を赦され、神の子とされます。神の子となりましょう。イエスを受け入れ、この出来事を自分のものとして告白しましょう。すでにそうした方は、改めて、さらにイエスの御業に感謝しましょう。
※以上のテキストはChatGPT による校正と翻訳に基づいて修正された説教メッセージです。









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