救いの証し  S.O.

普通「救い」と言うと、十字架の出来事を言うのだと思いますが、わたしは、「救い」を今まで自分が生きてきて助けられたという意味に解釈して、この「救いの証し」を書かせて頂きました。なので、普通、「恵み」、「癒し」と言われている事も救いに含めました。

私は29年前、子ども(長女)との関係をもう少し何とかしたいと助けを求めて浦和ルーテル教会の門をたたきました。大分前の事になるので、覚えていない事も多いのですが、暫くして志木伝道所が出来、浦和教会の友達に誘われてそちらに通うようになりました。私生活では、そのころ夫の転勤で稲城市に引っ越しました。志木伝道所が閉鎖されるまで、母教会の浦和と志木で14年ぐらい過ごし、暫くして東京ルーテルセンター教会に通い始めました。今、洗礼を受けてから16年半ぐらいになりますが、「救い」について感じている事が五つあります。

罪人である私が罪を赦され、永遠の命に生かされるようになった「救い」の出来ごとについては二つ感じている事があります。

わたしは、自分の(神様から託された)子どもさえ満足に愛することが出来ず、下を向き、自暴自棄になるしかありませんでしたが、神様は、このわたしを赦し、人生をやり直せるよと言って下さいました。これは本当に助かった事でした。また、永遠の命に生かされるようになった救いは、死を恐れないで、今を精いっぱい生きる原動力にいなっていると思います。

「救い」についての感想の残りの三つのうち二つは、「恵み」と言うのかもしれません。一つは、人生を共に生きて下さるイエス様がおられ、どんな時もイエス様と生きていくことが出来ると言う事です。イエス様が共にいて下さらなかったら、心配症、不安症、臆病なわたしは生きてこられませんでした。二つ目は、自分の事、家族の事、他の人の事など何でも祈る事が出来、その祈りを聴いて下さる方がおられると言う事です。祈ることで、気になる事があっても心を空っぽにして、上を向いて笑う事が、いつもではないけれど出来るようになりました。最後の「救い」についての感想は、今までの四つと関係している事ですが、信仰による何よりの救いは、どんな状況でも神様に頼って生きていくことが出来るだろう(死んでいくことが出来るだろう)という思いを持つ事が出来たことだと思っています。これは「癒し」というのかもしれません。

異常、五つが「救い」についての感想です。終わりに少し付け加えさせて頂くと、

  1. 家の近くで葬儀をしてもらえるところが出来、とても安心したこと。
  2. 前は一人で教会に行っていましたが、今、夫と一緒に教会に来られていること。
  3. 一番気にかけている子ども二人の事を祈って頂けている事。これは、本当にうれしく、ありがたく、神様と皆さんに感謝しています。

けれども、十五年、毎週通った教会を変える事は思った以上に心身に不調をきたしました。この時、神様がくださったみ言葉は、「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。あなたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたを任命した。」(ヨハネ 15:16)です。大きな励ましの言葉でした。

これからも神様の愛を信じて生きる者になりたいと願っています。よろしくお願いいたします。

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